虐殺されたモーツァルト

 

Twitter で、息子の小学校の先生が、忘れ物をしたら連帯責任で授業をしないっていう方針で、結果学校に行けなくなってしまったというツイートをみて、悲しい話だなと思った。

ふと思い出したことがある。

 

私の小学校3、4年生の時の担任の先生は、女性の先生で、しょっちゅう怒る先生だったんだけど、忘れ物をしたときにすごく怒る先生だった。

 

ADHDの気質の私は、よくどーーーーーしても忘れ物をしちゃう子だった。

 

怒られるのが大嫌いな子だった私は、怒られることを回避しまくっていて、いかにうまく立ち回るかっていうことを考えていたんだけど、忘れ物だけはどーしても回避できなかった。

 

小学校の時に、クラスが一つしかなかったから、教科書とか忘れた時に、他のクラスの人に借りられないっていうことが痛かった。

で、忘れ物をしたら、頭の芯がヒヤっと冷えて、動悸がして、怒られることがすごいストレスで、先生が怖くて怖くて、先生が嫌いになってしまっていた。

 

そこで、親に心臓の病院に連れてってほしいってお願いした。

 

まあ、単純にストレスで心臓が痛かっただけなんだけど、自分が置かれている状態が全然わからなくて、親にお願いした。

 

もちろん検査結果は異常なしでアッサリ帰されたけども、小学生の私は、わんちゃん病気が見つかって長期入院で学校に行けなくなればいいなって思った。

うすうすなんともないだろうなとも思っていたのもあるんだけど、それでも1日学校休めるだけで少しだけ気持ちが楽になったっていうこともあった。

 

子供ながらに、ものすごくストレスを感じていたのを覚えている。

小学校3、4年生の時の記憶って、ほとんどそれしかない。

 

もちろん、ADHD だから忘れ物をしてもしょーがないということを言いたいのではない。忘れ物をするのは私の責任だ。

 

今思えば、先生には忘れ物をしたら怒るのではなく、どうしたら忘れ物をしなくなるのか?っていうことを一緒に考えて欲しかった。

 

両親は、なぜ私が病院に連れて行って欲しいと訴えたのか、耳を傾けて欲しかった。

 

っていうか、どうせ家帰ったって教科書開かないんだし、全部学校に置かせてくれれば万事解決するのに。

 

あと、私が学校生活の中で、気質のためにどうしても避けられないストレスだったことが、あと何点かあるんだけど、それは今度まとめよう。

 

忘れ物は今でもそうだけど、まあ仕事行く時は、最低限入館証さえあればOKなので、だいぶ助かっている。

 

しかし、なくし物は今だに酷くて、今はAirPodsと、家の鍵がなくて困っている。

クレジットカードは止まってしまったし(それはなくしたのではなく、だらしないだけ)、Apple Watch はなかなか充電できないし。

ルーティンの中に織り込む仕組みづくりを考えないといけないなぁ・・。

 

横浜シンフォニエッタ

 

ちょっと前だけど

あまりにも気持ちが動いたので先日ちらっとかいたけど、改めてレビュー

 

2023.3.17

横浜シンフォニエッタ

指揮:山田和樹

曲:ブラームス ヴァイオリン協奏曲

  ベートーヴェン 7番

 

 

 

kitara に数日前からドーンとおいてある気合ぶり

 

 

いやー本当にすばらしかった。

心を動かされる演奏だった。

 

私は何を聞かされているんだろう?っていうベト7で、あおるあおる(笑)

あまりのできごとにクスって笑ってしまうレベルだった。

 

俗っぽいといえば、そうなんだけど、

みんなで真面目にふざけている演奏で本当に楽しかった。もうみんなベト7も聴き慣れてるし、クセ強のベト7ありだった。ライブならではの演出。

 

会場大盛り上がりw

ベト7でこんなに会場沸くと思わなかった

 

山田和樹さん、ポスターの画像から、勝手に辻井伸行さんみたいなキャラを想像してたんだけど、喋る喋る。こんなに喋る指揮者初めて見た。

 

そこから、この楽団の設立の話とか、札幌の演奏会への思いを聞いて、人柄が伝わってきたのもすごく良かった。

 

演奏終わった後、拍手喝采

アンコールなんと

 

ベト2 4楽章全部(笑)

 

すごかったの!

あおるあおる、オーバーな演出で、音が停止するところで、指揮者が「ドヤ」な顔でチラっとこっちむいて会場から笑いが(笑)

それをちゃんと2回やるっていう。

 

なんという高尚なギャグ

音楽で笑わすって本当にすごい。そして笑った。

演奏者たちが、かみて、しもて、後ろの観客にも挨拶してくれて、最後は手を降ってさようなら。

 

このまえ札響が指揮者の合図無視してたけど、そんな空気考えられない、演奏者と指揮者の信頼関係。

もう拍手喝采、会場の一体感がすごくて、終わった後もしばらく熱が冷めず・・・。

funnyな方のおもしろさでいうと、過去一番だったし、しばらくこれを超えられる演奏会はなさそう。ベト7ってこんないい曲だったんだ・・と。

 

札幌のいいところは、素晴らしいホールでプロオケの演奏を聞けることだけど、どうしても他の楽団の演奏を聞く機会あんまりないんだよね。

今度関東のプロオケと、広島交響楽団の演奏ききたいなー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こころ

 

 

今日ベト7を聞いてきた。

こころを動かされる素晴らしい演奏だった。

何を聞かされているんだ?っていうくらい熱いパフォーマンスのあるベト7で本当に楽しかった。ほら、音楽ってこんなに楽しい。

友人との思い出の曲でもあり、少し涙がでた。

 

 

夏目漱石の『こころ』という作品の中で、

先生は何故自殺をしたのか?

ということがよくテーマになる。

 

研究者の中でも諸説ありだけど、まあこうだろうっていう通説があって、私はそれを支持している。それを考えると、とてもじゃないけど高校の教科書に載せられるような作品では間違いなくないと思っている。

 

 

でも最近少しだけ考えが変わった。

 

そもそもなんで先生の死がこんなに議論されるかっていうと、

人が死を選ぶのだから、よっぽどの理由があったはず。それはなんだろう?

っていう当然の疑問があるからだ。

 

なにかあったんだろう、と健常者はそう思う。

 

でもどうなんだろう。

 

 

死にたくなった理由はたくさんあるのかもしれないけど、

死が実行される最後の一線っていうのは、実は非常に曖昧なものなんじゃないだろうか。

 

それこそ、日常の延長線上にあって、一歩先にあるような・・。

曖昧でぼんやりとした一線。

明確な理由なんて、本当はないのかもしれない。

その理由を考えるということに、少し違和感を感じている。

 

それでも、と思ってしまう。

残された人は学ばなければいけない。

私はまだ、言葉を失ったままだ。

札響 定期

 

 

札響 hitaru シリーズ定期演奏会

 

【指揮者 / 共演者】
指揮:鈴木 雅明
管弦楽:札幌交響楽団

【曲目】
矢代秋雄/交響曲(1958)
チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」

 

 

 

↓こちら行ってきました。

 

 

 

色々といいものを見させてもらったなっていう感想です。

ドラマチックな展開がいくつかありました。

 

まず、初めて対抗配置というものをみたので、新鮮でした。

ただ、hitaruのホールはやっぱり音が上にいっちゃうのか、どーしてもkitaraと比べてしまうと、特にバイオリンと木管楽器があんまり聞こえてこない。

 

ひさしぶりにA席とったんだけど、やっぱり寂しく感じてしまうね。

アクセスはすっごくしやすくて平日はいいんだけどね〜〜。

 

やっぱりバレエとか演劇とかのほうが適してるかも。

 

 

 

まずチャイ6の第1楽章で、指揮者がかっとばすかっとばす。

 

誰だかがレビューで、第1楽章がテンポアップで第4楽章がゆっくりで、ロシアっぽくていいけど、オケがついていけてなかった。って言ってる人がいて、私はロシアうんたらのくだりはようわかんないけど、ついていけていないんじゃなくて、たぶんついていかなかったのでは?という印象を受けました。

 

ちょっと、ん?っていうシーンがあった。

そこで、あれ、指揮者との信頼関係があんまりないのかな、とちょっと感じた。

 

決めるとこはさすがで、何度か美しすぎて昇天しそうになりました。

2楽章のチェロは痺れたし、

4楽章のはいりはめちゃめちゃかっこよかった。

(あれをしないと3楽章終わった時に拍手きちゃう)

 

で、話はもどるけど、前半の交響曲が終わった後に、それぞれの楽器を立たせるっていうパフォーマンスを指揮者がやったのね。

 

アマオケならよくやるけど、プロオケで珍しいなあと思ってた。

ソリストだけ立たせるんじゃなくて、首席を立たせてそのあとセクション立たせるっていうのを全部の楽器にやってて、普段しないだろうし結構ぐだぐだだった。

 

まあまあと思って見てたら、チャイ6終わった後も同じことをやり出して(笑)

もう首席のひとも「いちいち2回立たされるの間延びするからさっさとみんなで立つよ」みたいな合図だしてセクションごとで拍手もらう感じに(笑)

 

もういいよ〜みたいな雰囲気あって、

指揮者の先生が、最後に「はいみんなで立ってください」って合図を出したときに、誰も立たないっていう状態に。

 

 

 

コンマス「先生、もういいですから〜」

っていう雰囲気で立たないっていうのは見たことあるんだけど、今回については

 

りぼんちゃん「絶対に立ちません」

 

っていう雰囲気を感じた。w

 

先生も「えっ」ってなって

もう一回合図をだしたんだけど、全員無視。

(全員っていうかコンマスが立たない雰囲気すごいから誰も立てない)

 

軽くざわつく会場

 

んで3回目でやっと立って、ぺこってりぼんちゃんがおじきして終了。

見てるこっちがちょっと気遣う(笑)

レビューみても誰も触れてないけど、なんかすごい微妙な空気を私は感じて、これはこれでおもしろかった。

 

 

プロオケが指揮者を見定めるのは日本のオケの文化なんですかねぇ。

指揮者って大変ですね。

 

 

 

 

最近死期が近いのか、

ずいぶんと昔のことを思い出す。

 

 

何度か、人との別れで(死別ではなく)、身を引きちぎられるような思いをしたことがある。どれも学生時代に好きだった女性の先生や先輩で、共通しているのは一緒にいた期間がそんなに長くない人だった。

 

 

私高校1、2年性の時、友達居なくて、毎日図書室にいくような生徒だった。

吹奏楽部でも練習しない先輩に喧嘩売ってめっちゃ嫌われてて、結構居場所なくてぼっち生活してた。

 

その時に色々と話をしてくれた松村先生のことがすごくすごく好きだった。

 

松村先生は図書室司書の担当で、クラスは担当できないはずだから、私の同級生はへたしたら覚えていないんじゃないかな。

 

そして不思議と、この後書く話以外どんなことを話していたのかあんまり覚えていない。

 

たしか高校2年生の時の離任式の時に違う学校に移動になったはず。

その日は悲しくて悲しくて一日中泣いて泣いて、帰っても次の日もずっと泣いていた。

 

胸が痛いって形容してよく言うけど、本当にぎゅーんって痛くなって、両手先までビリビリするような痛みだった。

 

きっと先生も私のことを気にかけてくれていて、私に手紙を書いてくれた。

 

その手紙を見て、何ヶ月か先に手紙を読み返しては涙するっていう生活をしていた気がする。

大好きだった気がするんだけど、一緒にいた期間はすごく短かったのに、どうしてあんなに痛い思いをするほど悲しかったのかよくわからない。感受性が強かったのもあるのかもしれない。

 

 

最後に泣きながら図書室に挨拶をしにいって、部屋を出た後、少し遠くから先生がそこそこでかい声でこう言った。

 

「避妊しろよ!」

 

これが私にかけてくれた最後の言葉でした(笑)

 

こういう先生だったから大好きだったし、なんだか重く響いて強烈残っている(笑)

 

 

 

これはこの時に話をしたことではないんだけど、

避妊や妊娠、中絶の話をしたことはよく覚えている。

 

「中絶することは悪だとは思わない。理想だけではうまくいかないし、望まれない子供がいるのは事実。痛い思いをして学べばいい。ただし、中絶を繰り返すような人間は死ねばいいと思う。」

 

強く、こう言った。

 

すべてそのままの言葉ではないけど

「中絶を繰り返すような人間は死ねばいいと思う。」っていうセリフは一字一句このまま言った。原文ママってやつ。

 

言葉がそのまま私の中に根を張って香り続けているもののうちのひとつ。

そしてそのときから、私の人生のモットーにも置き換わった。

 

おかげで、友人だった人を切り捨てた経験もある。

 

言葉のちからって本当にすごい。

きっと、私はあの人と同じだ。

同じように感じている、感じるはずだ、ということがお互いに分かっていたんだと思う。

 

そして、おそらく、たぶん、きっと、私たちは、尖った恋愛をしてきた人種だ。

今何を考えて生きているんだろう。

当時の彼女と、今の私は同じくらいだろうか。

 

知ってる方、いませんかね?笑

会って話をしたいけど、そういえば・・・顔がほとんど思い出せない。

 

 

 

 

 

 

人にしてはいけないはなし

 

幸福の科学 大川隆法総裁が死んだ。

 

何も死因についての情報がでてこないのが、恐ろしい。

 

 

幸福の科学といえば、思い出すことがある。

高校生の時に仲良くしている子のお家に遊びに行った時のこと。

おうちのお手洗いを借りると、トイレにずらっと薄い冊子が置いてあった。

 

なんとなーく手に取ってみると

「ザ・リバティ」という雑誌で、かなりの冊数が並んでいたように思う。

 

そして目に焼き付いて、忘れられない秀逸なキャッチコピーなんだけど

大川隆法 オバマと対談」

 

って書いてて、ええ、すごいなぁとおもってよーくみると

 

大川隆法 オバマ(守護霊)と対談」

 

って書いてあるのね。

ぬわーなんだこれ!ってその時高校生ながらに「これが新興宗教か・・・。」と思った。

 

そしてそのページをみると、守護霊さんと政治についてそれっぽいことを対談していました。

そして私がそのあと思ったことが

その人の宗教をやめさせるために説得しよう!だったんだよね。

 

この発想は愚かだったと今なら思う。

 

 

そいですぐその話を持ち出したかは忘れたけど、

幸福の科学なの?って話をそれとなくしたら、そうだよ〜ってお財布からお守りをみせってもらい、ちょっとびびってしまった。

 

そこで説得を試みるんだけど

キリスト教とかイスラム今日とかって、世界に信者がいて、そのために戦争とか起こってるじゃん。幸福の科学はそういうのないじゃん」

 

とか、幼稚にも程がある主張(笑)

 

まあもちろん響かなかったし、自分の価値観とはあまりに違うということに驚かされた。

今になって思うのは、信仰心っていうのはものの考え方とか価値観よりももっと深いところにあって、私が諭していいものではなかった。

 

トイレに置いてある時点で、まあ親が入信してるわけだしね。

 

 

そこに救いがなければただのペテンだし、そこに救いがあれば、信者が多かろうと少なかろうと、立派な宗教だ。

 

そんなストーリーから、政治の話と宗教の話はしないっていうことを学んだ。

 

 

 

 

さらにもうひとつ、人としてはいけない話がある。

 

昔宝塚が札幌にきて、宙組朝夏まなとさんがトップのベルばらをみて、こんなにかっこいい男性世の中にいない!って思った。

 

当時の職場に宝塚が好きっていう人がいて、誰が好きなの?って聞かれたから「朝夏まなとさん」って答えたら「ああ〜ま〜くんねぇ〜」と鼻で笑われたことがある。

 

 

ということで、

政治の話と宗教の話と宝塚の話は安易にしてはいけないというのが私の方針である。

 

以上。

 

 

 

 

 

 

救急車をよべなかった話

 

こんなニュースをみつけた

 

監督 救急車呼ばずに30分後に搬送…大学4年の野球部員がランニング中に倒れ翌日死亡

newsdig.tbs.co.jp

 

結構前のニュースだけど、こういうニュースをみるとすごく心が痛くなる。

野球部員が重度の熱中症で倒れて、救急車を呼ばずに部の車で病院に行って、翌日亡くなってしまったというニュース。

 

本当に残念で悲しい事件。

 

誰もが思うと思う。

「なんで救急車呼ばなかったんだ?」

 

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私は、目の前で2回人が倒れたことがある。

 

1回目は、むかしむかし、新卒で入ったカーブスっていう会社にいた暗黒時代の時のこと・・・。

 

その時に、人が目の前で倒れているのに救急車を呼べなかったことがある。

 

呼べなかった、呼ぶという発想に至らなかった、っていうのが適切な表現かな。

本当に不思議なんだけど、人間ってそういう心理になるんだと思う。

 

しかも、高齢者と関わる仕事だったから、年に2回AEDとか、心配蘇生とか、そういう訓練をしていたにも関わらず、で。

そして同じように訓練を受けたスタッフが数名いたのに、誰もすぐに救急車って言わなかった。

 

今思い返すと、いろいろな要因があったと思う。

若い方で既往歴を知っていたから、低血糖で倒れたということがわかったということ

スタッフが数名いて、みんなちょっとずつ他責をしてしまっていたということ

同じお客さんに看病的なことをしだす人がいて、なんとなくその人に従う雰囲気になってしまっていたということ

 

その近くにいたお客さんは、横にさせたり、足のマッサージしだしたり、とてもじゃないけど正しい対処法とは全く思えなかった。なんだけど、この事態になった時に、疑問を感じてもなんかそれが正しいと思ってしまった。心理的になんか従っておいた方がいいのかなっていう、そういう力が働くのかもしれない。正常性バイアス?的な感じかな。

客観的に状況を想像したら「異常でしょ、救急車って思うでしょ。」って当然思うと思うんだけど、その異常な中に立場を置いた場合、どこか他の人に責任を委ねてしまう。もしくは、自分でなんとかしなきゃ!っていう気持ちも働いて、矛盾してどうするべきなのか判断できないのかもしれない。

 

(結果、救急車を呼んで、その方は回復し、数時間後に「ごめんね〜」って言ってお菓子を持ってきてくれました。)

 

何かあったらと思うと本当にぞっとする。

その時は、仕事での失敗という言葉では片付けられないほど本当に反省した。本当に申し訳ないことをしたと思った。

 

 

そんな新卒の時(22−23歳くらい?)の経験があり、2回目は、今の職場で研修を担当していた時のこと。

 

ちなみに、研修を担当するインストラクターは基本1人でクラスを管理する。

 

朝研修がスタートして、40分くらいたったときに、研修生が泡を吹いて倒れた。

その人は朝から「おれ昨日飲み会でオールして眠いっすわ」みたいなナメたこと言ってて、二日酔い&寝不足ということは知っていた。

(いろいろなところに突っ込みどころはあるけど、この際おいておく)

 

 

その時にあわてて抱きかかえて、少し吐瀉物もあって、お酒の匂いがした。

でもその時に思った。

「私は、この人の命の責任を負うことができない。救急車!」

 

この発想はね〜やっぱりカーブスの時のがないと、でないと思う。

そうじゃないと、二日酔いだよね・・?どうしよう?って、なると思う。

 

ちなみにその時は、結果意識が戻って、

「倒れました・・!?ごめんなさい・・・!」

ってはっきり話をしたので、

「救急車よぶ?救護室で休む?病院にいく?」

って聞いたら、救護室で休みたいって言って、寝てそのまま最後まで研修でてた。

 

救護室で当時のトレーニングマネージャーにくっそほど怒られてて、私が同情したレベル。

 

 

その時の話を大学の同期で今お医者さんやってるひとに喋った時に「いや、まあその状況で救急車ってすぐ発想になったのは偉いよ」

って言ってもらえた。

 

他にも、研修中に発作が起きた人がいて、自衛隊出身のおっきい大人が(笑)、どうしたらいいかわからなかった、って言ってた。

結果それも違う人が救急車を呼んでことなきを得たみたい。

 

 

 

 

ということで、野球部員のコーチがどういう状況だったかはわからないけど、一概に責められる問題ではないんじゃないかなと思ってしまう。

 

わからないけど、野球部員のコーチも、大変なことが起きて自分が管理者だから自分がなんとかしないといけないと思ってしまったんじゃないのかな・・・。

 

しっかり訓練をうけていたとしても、人は救急車を呼ぶというハードルは高いということを知っておくべきだと思う。そして、それを踏まえた上で訓練をするべきだと思う。

 

これがもし、倒れたのが高齢者だったら、わりとみんな迷いなく救急車を呼ぶと思うんだよね。高齢者が倒れる=死みたいなイメージあるから、きっと呼ぶと思うんだけど、若い人が「熱中症かな?」「低血糖かな?」みたいな倒れ方をしたときに、=死には結びつきにくい、死ぬかもしれないなんて考えたくないって思うのも要因なのかもしれない。

 

 

救急車を呼んで結果残念な結果になったとしても、それは仕方のないことかもしれないけど、救急車を呼ばずに残念な結果になってしまった場合、なにかできることがあったんじゃないかと、遺族も立ち会った本人も、すごくつらい思いをしてしまう。

 

 

 

会社でも、一人で管理をしていく環境っていう以上、そういう啓蒙っていうのは必要なのかもしれないなと、なんとなーく思っていたことをまとめてみた。